The false gospel of deception is sugar coated with assurance of prosperity in health and wealth.
The true gospel of the Lord Jesus Christ has no sugar coating of such, the bible is filled with descriptions on how christians are to suffer for the sake of Jesus’s name. This sufferings have its purpose for our growth and ultimately to glorify the name of the Lord. Please join us in listening as Pastor Miller shares from God’s word that “life is a test”
Galatians 3:19-26 The First Use of the Law
Why then the law? It was added because of transgressions, until the offspring should come to whom the promise had been made, and it was put in place through angels by an intermediary. 20 Now an intermediary implies more than one, but God is one.
21 Is the law then contrary to the promises of God? Certainly not! For if a law had been given that could give life, then righteousness would indeed be by the law. 22 But the Scripture imprisoned everything under sin, so that the promise by faith in Jesus Christ might be given to those who believe.
23 Now before faith came, we were held captive under the law, imprisoned until the coming faith would be revealed. 24 So then, the law was our guardian until Christ came, in order that we might be justified by faith.25 But now that faith has come, we are no longer under a guardian, 26 for in Christ Jesus you are all sons of God, through faith.
それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。 20 仲介者なるものは、一方だけに属する者ではない。しかし、神はひとりである。
21 では、律法は神の約束と相いれないものか。断じてそうではない。もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義はたしかに律法によって実現されたであろう。 22 しかし、約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである。
23 しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。 24 このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。 25 しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。26 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。
Learning about the Ten Commandments makes us realize that we cannot keep the Ten Commandments. We see in these standards the holiness of our God, and the depth of our own sin. The Ten Commandments force us to understand that God cannot accept us just as we are. We need to hear of the promise of God concerning the Savior, Jesus Christ, who forgives people of their sins and makes them perfectly acceptable to God.
Exodus 20:3 – Plurarism (10 Commandments series)
Religious pluralism is the belief that all religions lead to God, and so people in any religion can be saved by God. The first commandment tells us that religious pluralism is not correct. It lets us know that there is one, true God who has revealed himself, and it is only through his revelation that men can be saved. Indeed, salvation comes only through Jesus Christ, and we must know about him and personally trust in him in order to be saved (John 14:6). We must follow the one, true God by following Jesus, and obey the commandments he has given to us.
Exodus 19
God prepared his people to receive the Ten Commandments by showing them a little of his holiness. First, he prepared them by telling them that he was going to make a covenant with them. They would have understood that a covenant is a very serious thing. If someone breaks the requirements of a covenant agreement, that person would have to die. God them commanded his people to prepare themselves for his presence by special rituals. These rituals taught them that they were not holy, but God was holy. Last, God prepared his people by a remarkable display of his power. He is not a God that can be ignored, but he is a God that utterly destroys those who oppose him.
1イスラエルの人々は、エジプトの地を出て後三月目のその日に、シナイの荒野にはいった。2すなわち彼らはレピデムを出立してシナイの荒野に入り、荒野に宿営した。イスラエルはその所で山の前に宿営した。3さて、モーセが神のもとに登ると、主は山から彼を呼んで言われた、「このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げなさい、4『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。5それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。6あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」。
7それでモーセは行って民の長老たちを呼び、主が命じられたこれらの言葉を、すべてその前に述べたので、8民はみな共に答えて言った、「われわれは主が言われたことを、みな行います」。モーセは民の言葉を主に告げた。
9主はモーセに言われた、「見よ、わたしは濃い雲のうちにあって、あなたに臨むであろう。それはわたしがあなたと語るのを民に聞かせて、彼らに長くあなたを信じさせるためである」。モーセは民の言葉を主に告げた。10主はモーセに言われた、「あなたは民のところに行って、きょうとあす、彼らをきよめ、彼らにその衣服を洗わせ、11三日目までに備えさせなさい。三日目に主が、すべての民の目の前で、シナイ山に下るからである。12あなたは民のために、周囲に境を設けて言いなさい、『あなたがたは注意して、山に上らず、また、その境界に触れないようにしなさい。山に触れる者は必ず殺されるであろう。13手をそれに触れてはならない。触れる者は必ず石で打ち殺されるか、射殺されるであろう。獣でも人でも生きることはできない』。ラッパが長く響いた時、彼らは山に登ることができる」と。14そこでモーセは山から民のところに下り、民をきよめた。彼らはその衣服を洗った。15モーセは民に言った、「三日目までに備えをしなさい。女に近づいてはならない」。
16三日目の朝となって、かみなりと、いなずまと厚い雲とが、山の上にあり、ラッパの音が、はなはだ高く響いたので、宿営におる民はみな震えた。17モーセが民を神に会わせるために、宿営から導き出したので、彼らは山のふもとに立った。18シナイ山は全山煙った。主が火のなかにあって、その上に下られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山はげしく震えた。19ラッパの音が、いよいよ高くなったとき、モーセは語り、神は、かみなりをもって、彼に答えられた。20主はシナイ山の頂に下られた。そして主がモーセを山の頂に召されたので、モーセは登った。
21主はモーセに言われた、「下って行って民を戒めなさい。民が押し破って、主のところにきて、見ようとし、多くのものが死ぬことのないようにするためである。22主に近づく祭司たちにもまた、その身をきよめさせなさい。主が彼らを打つことのないようにするためである」。23モーセは主に言った、「民はシナイ山に登ることはできないでしょう。あなたがわたしたちを戒めて『山のまわりに境を設け、それをきよめよ』と言われたからです」。24主は彼に言われた、「行け、下れ。そしてあなたはアロンと共に登ってきなさい。ただし、祭司たちと民とが、押し破って主のところに登ることのないようにしなさい。主が彼らを打つことのないようにするためである」。25モーセは民の所に下って行って彼らに告げた。
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